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インテグレイティブ・ペイシェント・エクスペリエンス [IPX ]

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インフォームド・コンセント(informed consent)

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現在患者の医療上の意思決定への参加は、『インフォームド・コンセント(informed consent)』によって保証されている。

これはまた「個人の自己決定能力」、すなわち治療内容、治療に伴うリスク、あるいは治療を行わないことに伴うリスクと、それらの利点を理解し判断する患者の能力に依拠している。

また患者の「自己決定権」は、個人の能力を前提としていることにおいて、同時に決定内容に対する「自己責任」を伴うものとなる。
 

医療者と患者との責任のバランスは問題の状況によって異なるが、医療上の問題が生じた場合、あるいは生じうると予測される場合に関しては、専門家としての「医療者側の指導責任・職務責任」が、より厳格に問われるべきであろう。「医療における人権」、特に医療における「患者の権利と責任」という観点から考察をすすめるにおいては、医療者と患者との間で交わされる『インフォームド・コンセントの在り方』について目を向ける必要がある。

 
「インフォームド・コンセント」とは本来、医療ないし医学的研究における、患者ないし被験者の権利とそれに対する医師ないし医学研究者の社会的責任という脈絡の中に位置づけられたものである。

医療行為、とりわけ身体への侵襲を伴う医療行為の場合に「インフォームド・コンセント」が必要であることは、わが国においても広く認識されるようになっている。
 

つまり「インフォームド・コンセント」とは、『適切かつ充分な情報(information)を与えられた上での同意あるいは承諾(consent)』という意味である。

 
「インフォームド・コンセント」には、二つの起源があると言われている。一つは、欧米の医療過誤訴訟の中から生まれたものである。

1894年にドイツのライヒ裁判所において、医師の治療行為には患者の同意が必要であり同意のない治療は違法である、という同意原則が確認されたことが発端である。しかし、この時代は、もっぱら同意の有無が注目されており、説明に関しては医師の裁量に任されていた。

その後アメリカにおいて、「インフォームド・コンセント」という言葉がはじめて使われ(カリフォルニア州控訴裁判所判決)、医師の説明義務に関する法的責任が明確になったのは1957年のことである。

「インフォームド・コンセント」のもう一つの起源は、人体実験である。その歴史はしばしば、第二次世界大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判の判決から説き起こされる。非人道的な人体実験を行ったナチスの医師を裁いた判決の中で、人体実験を行う際の遵守事項が明文化された。これが「ニュルンベルク綱領」(1947年)と呼ばれるものである。
 

「インフォームド・コンセント」の歴史を語る際に必ず引用される古典であり、この冒頭には『被験者の自発的同意(voluntary consent)は絶対に欠かすことができない』とある。

また、世界医師会による「ヘルシンキ宣言」は、1964年に発表されて以来5回の改訂(1975,1983,1989,1996,2000)を経て現在に至っており、「ニュルンベルク綱領」とともに頻繁に引き合いに出される。この宣言には『ヒトを対象とする生物医学研究の倫理的原則』という副題がつけられており、医学研究に関する様々なルールの原型になっている。

 
次に、「インフォームド・コンセントの要件」、すなわち『どのような条件が満たされればインフォームド・コンセントと言えるか』について考えてみる。説明の内容として必要なのは、アナス(Annas GJ)によれば以下のとおりである。
 

① 医師がすすめる治療または処置に関する概要の説明
② すすめる治療・処置の、リスクと便益の説明、とくに死亡や重大な身体傷害のリスクについての説明
③ 別の治療法や処置を含め、すすめる治療・処置以外にどんな選択があるかの説明、およびそれらについてのリスクと便益の説明
④ 治療を行わない場合に想定される結果
⑤ 成功する確率、および何をもって成功と考えているか
⑥ 回復時に予想される主要な問題点と、患者が正常な日常活動を再開できるようになるまでの期間
⑦ 信頼にたる医師たちが同じ状況のもとで通常提供している上記以外の情報

 
こうした説明を受けた上で、患者が特定の医療行為の実施に対して与える同意に基づき、医師はその「医療行為を行う権限(authority)」をもつ。

「インフォームド・コンセント」なしに医療行為が行われた場合、それは不法行為または債務不履行となり、その医療行為を行った医師には損害賠償責任が課されることになる。また、「インフォームド・コンセント」は、本来民法上の要件を表す概念であったが、危険を伴う外科的治療などにおいては、ことと次第では「傷害罪(場合によって殺人罪)」を構成し得る。

「インフォームド・コンセント」は、『民法上の要件であるだけでなく、刑罰を課されないために満たすことが求められる刑法上の要件』でもある。
 

さらに昨今では、「インフォームド・コンセント」は、法理としての概念であると同時に、倫理上の概念として提起されることも多い。先に述べた生命倫理学の代表的な教科書であるビーチャムとチルドレスの『生命医学倫理』のなかで提唱された「自律の原則」によって再構成された『医師―患者関係の象徴』が、「インフォームド・コンセント」である。

 
「インフォームド・コンセント」は、『医師―患者間のコミュニケーションプロセス』を前提としており、単に医療行為について説明をすれば良いというものではなく、書面にサインする行為のみを指すものでもない。また説明も、医師が当該疾患や治療に関して持っている医学知識を詳細に披露すればよいというものではない。

説明は、患者に理解されなければ意味がないからである。

アメリカ病院協会による『患者の権利章典(1972年)』でも、「患者は、自分の診断、治療、予後について完全な新しい情報を自分に十分理解できる言葉で伝えられる権利がある」と述べられている。

70年代までの生命倫理学的諸問題に一定の見取り図を与えることになった『アメリカ大統領委員会生命倫理包括報告書(1983年)』においては、「ヘルス・ケアの提供者が単に患者の同意を求めるだけでなく、医療を行う側と患者との間で、医療の内容を明らかにした上で、十分な討議をするプロセスを通じて、十分な説明を受け理解した上で患者の同意を得るようにすること」と説明されている。
 

より簡潔には「患者が自己の病状、医療行為の目的、方法、危険性、代替治療法等につき正しい説明を受け理解した上で、自主的に選択、同意、拒否できるという原則」(1995年11月6日「患者の権利の確立に関する宣言」日弁連第35回人権大会)である。

この場合の「説明」とは、単なる「ていねいな説明」とは異なり、『患者が自己決定するための説明』である。その際の自己決定には治療しないことも含まれ、代替治療に関する説明も不可欠である。

 
したがって、倫理的に有効な同意とは、相互(医療者と患者)の尊重と参加による意思決定を行う過程であると言うことができる。

また、一部の知識階級の患者にのみ当てはめられるものではなく、すべての患者について、いかなる医療の場面でも適応されるべき概念であることも認識しておかなければならない。

古代において「専門家(professional)」と呼ばれたのは、医師、法律家、聖職者だけだったという。多くの専門知識と高度な技能を要求される職業はこの三つだけだったわけではないと思われるが、「宣誓(profess)」が求められていたのはこれらだけだった。これらの職業は、独自の倫理規範をもっているのが一つの特徴であった。

医師という職能集団における独自の倫理は、患者にとって最善の利益になるように、身につけた専門知識と高度な技能を使うということである。また、なにが患者にとって最善の利益になるのかを考えることも、医師の重要な役割として認識されてきた。そこでは、「患者にとっての最善の利益を患者と一緒に考え、最終的な判断は患者に委ねる、そのために必要な情報を患者が理解できるようにわかりやすく伝える」などという発想はなかった。

むしろ「知らしむべからず、由らしむべし」という通念に代表されるように、患者の自律性は顧みられることなく、むしろ積極的に否定されていたと言っても過言ではない。
 

その後、『生命倫理学』の登場などによって、医師の『パターナリズム(paternalism)』 ※1 は批判されることになった。

患者の自律的意思決定が尊重されるようになり、宗教上の理由によるいわゆる輸血拒否(当事者から見れば無輸血治療の選択)に代表されるように、医療の常識においてあるいは社会通念上、それが「当然」とされる治療を患者が選択しなくても、その決断を無視することはできなくなった。

 
しかし、誤解してはいけないのは、患者にとって何が最善の利益になるのかを考える医療者の倫理的義務が否定されたわけではないということである。

問題は、『患者にとっての利益』というものに対する見方・考え方である。医療者側の常識や社会通念を押し付けることが、患者の利益につながるわけではない。むしろ、それら(常識や通念)に反していてもその人の望むような医療的対応をすることこそが、その人の希望をかなえるという意味において患者の最善の利益を守ることになる場合もあるのだ、という発想の転換が必要である。

その人が何を望んでいるのかを、対話によって把握するという地道な努力が求められていると言える。
 

それはまさしく、筆者自身(筆者である私は「進行性筋ジストロフィー」を抱える1級障害者)においても、また多くの患者による『価値からの自由(ヴェルトフライハイト/Wertfreiheit)』 ※2 を宣言するものであり、『自由の哲学』の求道でもある。

また、『患者中心型の医療(patient centered medicine)』の樹立と実践を創出するためのエキサイティングな試みである。

つまり、『インテグレイティブ・ペイシェント・エクスペリエンス(IPX)』の探究と実現において、「生命倫理(バイオエシックス)」について議論する際には、標準的なバイオエシックスの歴史的展開の主な担い手である、哲学、医学、生物学、法律学、神学、宗教学、社会科学などの専門家と言われる「インサイダー」側の視点もさながら、さもすれば、その対象である「アウトサイダー」側に位置付けされかねない『患者(ペイシェンド)』側の視点をも汲み取った『共同体的倫理思想(コミューニタリヤニズム)』を核「コア」として、『関係性の人間学(an anthropology of relationality)』に基づく『協働の医療(collaborative medicine)』の実現を図りたい。

 


1 パターナリズム強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。日本語では家父長主義、父権主義などと訳される。語源はラテン語の pater(パテル、父)で、pattern(パターン)ではない。対義語はマターナリズム(maternalism)。 社会生活のさまざまな局面において、こうした事例は観察されるが、とくに国家と個人の関係に即していうならば、パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいは、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理である。

2 価値自由(Wertfreiheit)マックス・ヴェーバー(Max Weber)が提唱した、価値評価無強制姿勢による社会科学の方法論。客観的事実の探求を理想とした場合にも、あるべきものの探求という主観的価値評価から離れることはできない。そこで自らの拠って立つ価値を自覚し、それに囚われずに認識を行う方法である。マックス・ヴェーバーは、何かを認識する場合には、善悪や美醜といった価値判断と、何が事実かという事実判断を峻別し、社会科学では事実判断をもって仕事とするべきとする原則を提起した。しかし、認識から価値判断を完全に除去することは容易ではないため、ヴェーバーは、事実判断を行う「私」自身が捕らわれている価値の根本を探りだすことで、「価値からの自由」を得ることが可能になると述べた。たとえば、ある社会で「当たり前」とされる社会認識は、「誰にとっての」当たり前かを考察する事によってその社会認識に存在する盲点が明らかになり、そこから「当たり前」が作られるメカニズムの考察が可能になる。このように、価値自由の原則では、対象化と自己分析的な事実認識を行う事で、観察者自身が陥りそうな偏見を予期することが可能となり、冷静な事実判断が可能になる。


患者中心型の医療と協働の医療


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