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Ⅳ.個人の健康から社会に至る「現代に見られる病理」
- 2014/10/18
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- スピリチュアルな混乱, 現代に見られる病理
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過去と現在の多くのスピリチュアルなヴィジョンでは、ある程度「乖離した知の産物」を抜け出していない。
たとえば、身体もこの世界も究極的には幻想(低次元で、不純で、スピリチュアルな解放にとって障害)であるといった、ゆがんだスピリチュアル・ヴィジョンは主として、微細な超越的意識に未成熟な感情や精神的優越観というかたちで、そのエネルギーに触れることから生じる。
それゆえ、身体的で生命的に内在する「スピリチュアルな生と源」には根ざさなまま漂うこととなり、自己感覚は身体も世界も究極的には幻想で欠陥のあるものだという、「心身の乖離した心理」に陥ってしまうのである。
まさしくこれが、「現代に見られる病理」であり、それは個人の健康から社会に至るまでのほぼ全体に対して、重大な問題を引き起こしている元凶となっている。
残念ながら、心身の統合にしっかり根ざした、統合されたスピリチュアルな生という考え方や、人間の生(性、精、聖)のなかでこの潜在的可能性を実現させるための効果的な実践を探究し、発達させようという試みは、現代の文化において多くは存在していない。
もっとはっきりと言えば、身体や本能、性、感情の原初的世界の成熟については、さしたる関心が真剣に向けられてはいない。
決定的にその道に繋がる「真理(スピリチュアル・バリュー)」から、「真実性と具象」へ至る不変的(普遍的)プロセスが、未だ「抽象の域」でジレンマを踏んでいる。
つまり、スピリチュアルな道の実践者のあいだで、真に統合的な成長が開花していくことは希であり、仮にあったとしても一瞬の出来事に終わる。
前章で指摘したように、「ハートのチャクラの上」だけをスピリチュアルとみなす傾向(全体性は語るものの)の背後には、非常に根深い多くの歴史的、文脈的な要因がある。
これらには、研究者や専門家のあいだにおいて、かなりの注意が払われていることは確認でき、実際、考慮されてはいる。
しかしながら、宗教的な伝統の文脈では、人間のある種の性質が、スピリチュアルな意味が他の性質よりも正しく健全であるとして、「平静さは激情にまさり」、「超越は感覚的な身体経験にまさり」、「貞操は性的放縦にまさる」といったことが広く自我に浸透している。
文化面での文脈のなかでは、人間の意識のさまざまな価値を出現させ、成熟させていくためには、人間の原初的な次元(身体、本能、性及び感情のいくつかの面)を抑制することが、ある時点では必要なことであった。なぜなら、まだ発生したばかりで比較的脆弱であった自己意識とその諸価値が、かつての本能的な衝動エネルギーが有している強力な存在の中に、ふたたび吸収されてしまうのを阻止する必要があると考えるようになってしまった。
そして何より、私たちは「性(セクシュアリティ)」がコントロールし難い本能と思っている。
そんな動物的本能をあからさまに語ることは、はしたないことだと過去も現在も抑制し、抑圧して避けてきた。
特に性欲は抑え難い欲求なのだから表に出さないよう抑え込んでおかなければならないと、性を得体のしれない怪物のように恐れてきた。
しかし、人間がそう思うのは、私たちの性がそうした性であり、現代の文明社会の中で、実は天使である性を悪魔に変化させてしまう社会的あるいは文化的、国家的(このなかには歴史的宗教による支配も含む)支配の背景が何千年と続いてきた中での、「原罪」「カルマ」「因習」として扱われてきたからである。
実は、そこにこそ、私たちの「原初的生命の世界(生命エネルギーの次元)」から「超越的な意識世界(意識エネルギーの次元)」までを全包括し、統合し、創発(創造的進化)を生み育てる、非二元的世界(禅の究極的な悟りから現代のITPが提言する世界観)をも抜き超えた「至高の悦=究極のエクスタシー(源なるエネルギーの次元)」が実在(リアリティ)している。
そして現在、その「源(一なるもの)」を故意的に葬り去ろうとする何千年もの苦悩が厳然と横たわり、いつしか宇宙や自然、そして生命や進化の神秘から果てしなく遠ざかる「流浪の生の旅」へと投げ出されてしまった。
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