コンテクスト・リテラシー bandicam 2014-10-16 22-26-28-401

思いは伝わらなくては意味がないし、価値も生じない。  

主義・思想・哲学・イデオロギーなど、読者に伝えるべきは「テーマ性」などではない。ひとりよがりな思いだけが先だったコミュニケーションは、たいてい全体主義的「ファシズム」になる。

どんな御大層な思想も、伝えられなければ価値はなく、思いは他者に伝わってこそ、はじめて意味あるものになる。 書き手が伝えるべきは、「テーマ」ではなく、『コンテクスト』である !!  

『コンテクスト』とは、文脈や背景、前後関係のことを指す。 日本人は、行間を読むのがうまいと言われるが、それは、日本文化がコンテクストを理解する能力がないと生きていけないことの裏返しでもある。

リテラシー』とは、英語のリテラシー(literacy)がもともとの言葉で、そもそも「読み書きができる識語」という意味である。 そこから、知識を持ち合わせていること、様々な分野に関して長けている、知識があるという風に使われるようになった。  

あうんの呼吸が通用する文化を「ハイ・コンテクスト(high-context)」といい、対照的にいちいち全て背景から説明しないと気がすまない文化を「ロー・コンテクスト(low-context)」という。

ハイ・コンテクストな社会では、仲間内などの人脈が極めて重視される。 会社とプライベートの区別が弱く、あまり野暮なことを聞くと嫌われてしまい、根回し力、雰囲気を察する能力、空気を読む能力が求められる。

(日本、中国、中東、仏、伊、スペインなど)

ロー・コンテクストな社会では、言葉できちんと説明しないと気がすまない。 会社とプライベートは明確に区別する。

北米、イギリス、スイス、ドイツ、北欧など)

日本はハイ・コンテクストな文化だが、一方でマニュアル大好きで、規制・許認可でがんじがらめの一面も持ち、みんなできちっと規則を定めないと、日本民族は気持ちが落ち着かない。

中国も日本と同様にハイ・コンテクストな文化を持つが、マニュアルは嫌いで、政府やお役人を信じない、徹底的な個人主義を貫くことから日本とは対照的である・・・。  

この世界には、一見無関係に見えるものが裏ではつながっているということがよくある。 裏側も視野に入れて見ないと状況はつかめない。

しかし、裏側と言っても浅い深いがあり、浅いものは対症療法と呼ばれるものに近く、深いものは東洋医学のようにホリスティックに対象をとらえる。

私は、裏にあって表側に影響を与えている深く本質的な仕組みを『コンテクスト』と呼んでおり、大きく分けて自然的コンテクスト、社会的コンテクスト、精神的コンテクストの3つの側面があると考えている。  

科学にも自然科学、社会科学、人文科学の3つの分野がある。 しかし実験室を舞台とする科学に対し、日常生活においては、途中までは科学的思考を利用するが、あるところからは日常感覚の直感に従い、科学が限定している範囲を超えて裏側を想定することが可能である。

なぜなら、日常世界は、やがて科学で証明されることになる仮説が生まれる場であるからだ。

さらには生活のとらえ方も、私たちが生きている世界としてではなく、私たちが生かされている世界としてとらえ、世界を客体化せず、そこに依存する一部の存在としてとらえることも可能である。

その、私たちを活かしている世界の表面世界の背後にあるマクロな自然からミクロな自然へ至る、連続性や関連性、それらを貫通する働き、そして日常の表層意識に常にひそかに影響を与え続ける深い意識や、さらにもっと深い意識の存在など、日常の土台となっている仕組みをここでは『コンテクスト』と呼んでいる。

そして、『コンテクストリテラシー』というのは、浅いものから深いものまでさまざまなレベルがあるにせよ、そういう仕組みを認識し、読み解き、気づき、表現する能力のことである。  

これからは、普通の人が普通に国際的舞台に立たされるであろう。 
日本と中国、アジアと欧米を比較する『多角的な文化指標』を持つことは必須である !!
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