ヘルスサイエンス:「人間を対象としたライフサイエンスの応用研究」

バイオエシックス日本国内における医科学の頭脳を結集した「日本学術会議」は、内閣府に所属する特別の国家機関であり、科学者コミュニティを代表して政府や行政に対して、勧告、要望、声明、提言などにより国の政策や学術に関して意見具申をする機能を持ち、人文・社会科学から生命科学、理学・工学など全ての学術分野を統括してその発展に寄与する国内屈指の頭脳機関である。言い換えれば、日本学術会議は、我が国の学術全体を複眼的かつ俯瞰的に見ながら長期的に展望することを一つの使命としている。

前回、平成20年度に公表された「ライフサイエンス・ヘルスサイエンスのグランドデザイン」を取り上げ、それまでの「ライフサイエンス(生命科学)」における状況と問題認識、その認識内容には、科学者の苦悩とともに「新たな理念」を持とうとする態度が伺えることを示した。

それは科学者としての認識が、生命科学の研究成果が生命現象の解明のみにとどまらず、人類の福祉に貢献するという認識が社会において切実に共有され始めたこと、また、これまでの研究推進の方策に再考が迫られていることを受け、「生命科学研究の質的変遷」に対応し、さらに国民からの要望の強いヒトへの応用科学としての「ヘルスサイエンス(健康科学領域)」を創設するためのグランドデザインを公に示したのであった。

 

ここで一つの疑問が国民側に生じる恐れがあることとしては、我々の健康に対する専門分野が医学であり医療機関であることは周知の通りであり、現に医療に関わることは日常的に行われていることでもある。

ではいったい、21世紀の今になってなぜ「ヘルスサイエンス(健康科学)」の創設を、科学者ならびに専門家は設定し推進を提言したのであろうか?

前述したように、科学者自らがこれまでのライフサイエンスの推進の仕方に苦言をさし、あえてヘルスサイエンス領域を創設する意図とはなになのか?

再度、下記において科学者側の動機に当たる文言を掲げみたい。

 

ライフサイエンスの社会への還元を考える時、科学者の立場から言える事は、その成果の治療や福祉への転換が十分に行われてきたとは言い難いことである。これは、日本のライフサイエンス研究が、ヒトを理解する事を最終目標にしており、その成果を「人間」に還元することを明確な目標としてはいなかったためでもある。ライフサイエンスの研究成果を社会に還元し、その知見を社会の常識へと変換していくための方策として考えられるのは、「人間」を理解し、その健康と福祉に貢献することを目的とした「ヘルスサイエンス」という研究領域を設定し、推進することである。

【日本学術会議】「今後のライフサイエンス・ヘルスサイエンスのグランドデザイン」より

 

いかがであろうか。一見は科学者の立場で自己批判し、「ライフサイエンス」の目的、あるいはその対象となる目標が単なる学問としての知の獲得のみに終始していることを明かしている。それはあたかも、「科学のための科学」を行ってきたのであって、血の通った温かみのあるものではなく、単なる「知識の積み上げ」に没頭してきたように理解される。

しかし、それらは自ら「研究成果」と評価しながら、「社会への還元」によってその知見を「社会常識」に変換していくための方策として考えられるものとして、一義(一次)的ではなく、二義(二次)的に「人間理解と健康福祉貢献」を目的とする「新しい知的作業の領域」をヘルスサイエンスと名付け、それを打ち立て、新たな「価値創造の分野」として推進すると言うことは、『ライフサイエンス側がヘルスサイエンス側を統治する』と聞こえるのは私だけであろうか?

そして、その価値創造は果たして、国民である一般の人間に還元することが本当の真意なのかを疑ってしまうのは歪んだ見方だろうか?

つまり、社会及び文化を含む現代文明をリードしてきた科学至上主義、それらに基づく功利主義とが相まった世界観が築いた様相を写すのは、現在の国民生活そのものであり、日常を生きる人間とその環境にすべてが集約されている。

ようするに、現代の病理を含むありとあらゆる人為的問題の根源、そのような社会実態を作り出した原因においては、少なからずとも科学・技術的な知の領域が関わってきたことは否めない。

仮にそうではないと言うのならば、科学の領域に対する信頼は国民生活から得ることは叶わないであろう。

実態のある人間生活の中で、もっとも関心があり普遍的な問題が、如何に安全にそして元気に命を養っていけるかが中心であって、通常の意識の中、あるいは精神生活を送る上で、それほど科学的思考や認識を必要以上に用いる場面などあまりないのが実情であろう。

一般的な国民にとって、サイエンスの在り方が問われる場面は、やはり医療に関わる際がもっとも身近にサイエンスを感じ、そして真剣に受け止める契機となると考えられる。そして、我が身に発生した病と言う「体験的な知」を通じて、ヘルスサイエンスと言う「知の領域(空間)」がもたらされてはじめて、本来的(本質的)なライフサイエンスに対する関心、あるいはライフサイエンス側が求める「命題的な知」と患者(人間)側が求める「体験的(実践的)な知」が共創的に結ばれていくと考える。

サイエンスは今まさに、もっとも重要な時期に差し掛かっている。通常の一般国民はそれほどバカでもお人よしでもない。今や知の領域ほど手に取るように入手しやすい人工物はない。

つまり、現代は知識そのものがグローバルなのである。そして、それを可能としたのがサイエンスであり、その利用者はグローバル世界の住人である以上、抜け穴的なサイエンスでは、その使命を果たすことは愚か、見限りを食う恐れさえある。

特にライフサイエンスに対する国民感情は、臨床に対する『倫理の問題』へとその中心的関心を向け、一気に生命科学の盲点を炙り出すことになると考えられる。それは当然に医学界を巻き込んだ「生命倫理(バイオエシックス)の追求」に発展するであろう。

倫理に関する問題を政治的判断に委ねたがゆえに、医科学界は相当な「理念」と「志」を持たねば、国民理解を得ることは至難の業である。

その兆しは、「理化学研究所」の一連の騒動において、一層クローズアップされそうな気配を感じて相違ないであろう。


 

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